国際社会科学講義補足


国際社会科学講義補足

1)国民国家の「揺らぎ」とその必至の自己再生産について:
 国民国家は、ウェストファリア条約以来、文明所国家それぞれの国家と市民との「安全保障契約」を確立して、市民の安全を保障する代わりに、「合法的な暴力(軍事/警察/処刑)」を独占して来た。また、文明国同士では国家間のパワーバランス、非文明諸国には文明の宣布と人道介入との名目で植民地主義介入を続けている。しかし、安全契約を破る非合法移住者の先進国での定住と、南の新興国における暴力の国家独占の破綻によって、「国民国家のゆらぎ」が拡大の一途を辿っている。特に国家による正当な暴力の独占は、フランスのテロ事件よろしくテロ国家間の冷戦が始まっているにもかかわらず、国民国家のカント的な「恒久平和のために」結成された国際連合以来の暴力の国際的管理が、依然不完全ながら続いている。特に、国家よりも巨大な多国籍企業による人間の安全保障を抑えるなど、南における多民族国家の現況は無視出来ない。これらを鑑み、世界的規模の立憲秩序を国連で策定する方向で非覇権的/反植民地主義の新しい国家を作り、市民のみならず「民衆(マルティテユード)」も参加する国家と市民と民衆(先住民族などや非合法移住者)の新しい非暴力的な人間の安全保障体制を作る必要がある。例えば、中米中心に構成されているボリヴァール革命の国家と市民と民衆の連帯経済同盟が、ひとつの原型となっている。

2)国民国家と経済成長の枠組みのズレ:
 前記の民族国家の揺らぎの中で、ウォーラースティンの言う世界市場の国民経済を構成する国民諸国家の財政(フランス語ではオート・フィナンス:つまり高等金融)による世界市場における国民の平和的生存と福祉への障害を防止する国民国家の福祉経済的な役割が、新自由主義グローバル経済の中で機能停止をしている。たとえば、NAFTAで制度化され今TPPでも採用されつつあるISC(投資主体と国家の紛争)においては、投資する多国籍企業の利害を中心に、これを妨いだ国家や地方自治体が告発される世銀内の法廷が設立され、多国籍企業の投資企業に対する利害を国家の国民に対する福祉責任に優先させるグローバル・スタンダードが確立されている。これにより国家は、グローバル市場の中で多国籍企業と競争し協力するグローバル自由経済のアクターに変貌し、ウェストファリア政治による国民国家単位の国民経済の形骸化が進行している。このような新自由主義世界金融経済の中で「経済成長」は、国家規模(国民経済規模)で進んだとしても、完全雇用なき成長を招き貧富格差を助長しているに過ぎない。世界市場の機能停止をもたらすとの名目で、国民市場が形成する国民経済の金融破綻を避けるために施す金融緩和と他(先進)国からの財政支援は、金融界と大企業の生存を保障するために国民市場の負債を拡大するものである。そこで結局は、この累積負債を返済する責任を南のクニグニの富裕層以外の庶民に押し付けて、その生活を締め付ける格差拡大の制度化をもたらしている。持続不可能なウェストファリア世界経済が形成する金融中心の生き残り政策は、国民諸国家がその国民との安全契約を破る方向で最終的破綻を引き伸ばしながら、瀕死の世界金融資本主義のもとでの生存を続けている。そこで、今日このような金融資本主義の尊厳死を実現することが99%の市民の安全保障のために不可避となっており、既に問題は、グローバル規模の「金融資本主義」の尊厳死がもたらす混乱をどのように最小に留めるか、と言う「ソフトランディング」の処方箋に至っていると言えよう。

3)自然科学と技術官僚の現実の捉え方:
 1980年代までにも、既に予測と計画の「科学的な推進」が持っている矛盾が問題になっていた。その矛盾は、モデル化の不可測性を理解させない教育で再生産されている専門家によって、基本的に不可測な現実の中で極めて限られた範囲で数量化出来るに過ぎない情報が、それを無条件に甘受する市民で構成される議会制民主主義のもとで正当化されている現象に繋がっている。技術官僚は、そのような「専門家」の知識の限界を国民に知らせずに、その予測の前提のあいまいさを無視した計画を施している。そこに自然科学をもとにした「技術」至上主義の計画が加わり、問題を混迷させて来た。最近では更に「専門家」の意見が商品化して、金融資本に有利な「予測」が横行している。「専門家」の研究の資金的な操作によって、資金を提供出来る多国籍企業を中心とする産官連携軍が、国民国家/多国籍企業/国際機関/市民団体に及ぶ各分野の技術官僚の同盟を強化している。その結果は、核兵器産業/原発から情報産業/サービス産業/遺伝子組み換えなどの農業の工業化(アグロインダストリー)にまで広がっている。これに応ずる対策は、意識レベルから知識産業/市民の相互学習までを連携させる「持続可能な開発」教育の形で進められる必要がある。

4)情報科学の機械化とその現実単純化:
 情報化は予測と計画の側面でも、サービス産業/アニメなど感性的な側面でも進んでいる。この傾向を改めるためには、市民の十分な理解をもとにした決定(インフォームド・コンセント)を可能にするような方向で、予測と計画の専門家と素人との認識ギャップを埋める必要がある。また娯楽面での市民参加がエロ・グロ・ナンセンスに流れないよう、感性の面では、アニメの表現を支えているアニミズムの伝統的な知恵を復興することも必至である。テクノクラシーとは、ギリシャ語で奴隷が主人の指図を聞いてその命令に従っい主人の計画を実施するテクネーを基にした、労働の奴隷化を起源にしている。これに対して、ギリシャでは自由人が都市国家コミュニティの中で談笑しながら職人仕事をするポイェーシスとの、もうひとつの労働と計画の組み合わせがあった。今の万物を商品化する金融資本主義を作り変えて、イヴァン・イリーチの言う「饗宴社会」(宴会のような平等互恵の社会)を作るために、テクネー中心ではなしに、ポイェーシスをもとにした計画/ものづくりと人づくり/社会づくりに方向転換するポイェトクラシーを進める必要がある。イタリー・トリーノのH.R.マトゥアナ達は、1970年代の日本における石油ショック脱出が、国家による計画経済ではなしに自律協働によって進められたことをオートポイェシスと呼んで、技術官僚型の予測と計画と異なる日本型の自律システムに注目している。その意味では、日本的なすり合わせを大事にするポイェトクラシーをして、日本の伝統知を掘り起こして進めていく可能性があるかもしれない。

5)民間(市民)の持つノウハウと技術官僚:
 技術官僚制をもとにした予測と計画を市民に押し付けている現状を変えて、市民の経験と知恵とを活用し現場からのボトムアップする計画を、「専門家」が上から市民に押し付ける技術官僚的な計画の代わりに打ち立てる必要がある。その理論的根拠は、ジョン・フリードマンの「ラディカル・プラニング」と言う形で打ち出されている。またこれとは全く無関係に、国連大学のファン・ヒンケル学長が提案したオートポイェシス的な地域ネットワークによる発展のモデルの「実験」がある。2002年のヨハネスバーグ国連環境会議で国連大学が提案した「専門家拠点」ネットワーク構想は、「持続可能な開発」教育を世界諸地域のRCE (RegionalCenter of Expertise) /専門家拠点のネットワークで進めようと言う計画であった。その場合「専門家」でも最重要な「専門家」として地域コミュニティに住んでいる「市民」が「毎日の生活」による経験知を持っている「専門家」とされていた。ポイェトクラシーはそのような市民の参加的な民主主義を、それぞれの「生命地域」で実施していくRED(Radical Ecological Democracy) を基礎とする下からの予測と計画のシステムである(生命と生活からの演繹)。これに基き、上からの多国籍企業による万物の商品化を抑えるポイェトクラシーを試行する必要があると言えよう。

6)科学情報の変容をもたらした力学情報から生命情報への重点の移動:
 アミルカル・エレーラは、「長い旅路」と言う本を書いて、地球上の生命の進化の長い歴史の末に地球を破壊する知的生物が進化の最終点に立っている現況を指摘して、人間が自然破壊をする計画を進めないように戒めている。核物理学は鉱物圏の破壊の(悪)知恵をもたらし、生物学(生命科学)は遺伝情報により生命圏をめちゃめちゃにする知識を生み出した。科学の知識は、これを悪用しないことを決意する倫理的な知恵を人類が持つことを義務付けている。そのため科学知は、新しい「認識共同体」の重要性を生み出したと言える。生態系を破壊する能力を自己抑制する「認識共同体」が、社会の予測と計画の全ての主体 -国家でも、企業でも、大学/研究所でも、政治家の世界でも、市民運動体においても- 必ず存在している。このことを認めない限り、政治学におけるホモポリティクスの権力欲の立場からも、経済学の利得を最大化しようとするホモエコノミクスの欲求の立場に立っても、(60年代に始まった)生態系を尊重する運動が国家/企業/市民活動/国際組織などの技術官僚制の中で一定の力を得た事実は、説明がつかない。1980年代にこのことを主張したピーター・ハースの認識共同体論は、その後むしろフェミニズムにおける文化的な相違の存在を説明するために用いられるようになり、多文化主義の一つの論拠ともなった。このような動きとは別に、遺伝情報への関心を浮き彫りにすることで、情報理論の言語学的な分析が際立ったパラダイム・シフトを要求するようにもなっている。インド・ヨーロッパ語をもとにした遺伝情報の解釈は、いわゆる文脈から自由(コンテキスト・フリー)な言語として遺伝情報を解読しようとしている。しかし、遺伝情報はむしろ日本語などのように、異なった文脈の中で異なった「意味」を持つこと(コンテキスト・ディペンダント)が基本であり、よって遺伝情報が働く生命環境(人体内でいえば皮膚/臓器/神経系など)の中では、それぞれの環境条件に従って同じDNAが別の意味を持つことが考えられる。このように複雑システムの中の生命情報を理解する必要が生じ、生命の理解のために西欧普遍主義の科学認識に変わるオルタナティヴな文脈依存型の認識論の構築が必要となっている。物理学の世界では既に、暗黒物質/暗黒エネルギーなど、人間の知識が捉えていない現実が存在していることが明らかにされている。これについてはやや詳しく触れたい。
 コンピューター論理についての駒宮理論は、人間の言説もコンピューター言語による情報操作も有界無限集合の中でおこなわれることを強調している。至極当然ながら数学的帰納法では、ある数列のn番目について言えることがn+1番目でも正しいことが証明出来さえすれば、この手続きを繰り返し無限大の数にまで至ることが可能であり、けだし結果が常に正しいと言う論法が全ての予測と計画に使われている。ところがコンピューターでも人間の頭脳でも、使っている言語が無限に続いたのでは最後まで結論が帰結しないことになり、無限時間かかる発言や計算は事実上無意味になってしまう。この説は、人間の知識があくまでも有限な時間内の知識であることを強調している。ゆえに駒宮は、有界(一定の限界)無限数列と言う存在をコンピューター数学の基本概念にしているのだ。
 その関係で予測と計画の根底になっているいわゆる「数学的帰納法」であるが、数学的な説明をすれば、nで成立することがn+1でも成立することをもとにして、無限集合についての知識を帰納論で類推出来るとされている。実はこの有界無限集合については、20世紀初頭にフランスの数学者フレシェが、いわゆるフレシェ・フィルターとしてモデルを提唱している。フレシェ・フィルターとは、有限集合の補集合をもって無限集合を定義することを指す。例えるなら、有界列の最大の数をnとした場合の補集合- つまりn+1よりも大きな数の数列のことである。このフレシェ・フィルターは、本来無限集合である筈の有限集合の補集合が"補集合"としての有界枠に存在してしまうことを表し、即ち、nをどれほど大きくして無限大に近付けても、常にその補集合として有界集合には入らない情報が存在することを意味する。従って、そこに隠された暗号は永遠に解けない、と言った論理が成り立つ。暗黒物質とか暗黒エネルギーと言われている物理現象は、要するに幾ら数学的帰納法を使ってnを大きくしても、手の届かないn+1以上のフレシェ・フィルターの定義する「補集合」の中に隠されてしまうのである(注:あくまでも仮説ではあるが、ひとつの例証とはなりうる)。結局、駒宮の主張する有界無限数列の補集合の論拠となっているフレシェ・フィルターの理論を使えば、n+1以上の点においてはどんなことが起こっているのかについて判断出来るとは限らない事例が推論出来る。予測と計画を進める際には、その種の計算出来ない「現実」が「目に見えないもの」として存在するのだ。真の唯物論は、そのように目に見えない「物」- つまり現実が存在することを謙虚に認めると言う立場である筈だが、それを全く消化していないのである。その意味で、予測の不確定性を常に計算に入れた可能な将来の状況の中で、本来観察出来ないフレシェ・フィルターの世界に隠された最悪な事態が起こりうる。ゆえに、証明されない危険でもそれが存在しないと証明出来ない限り避ける「予測」を基にした「慎重」な計画を立てる必要がある。
 小児癌が放性物質によって発生したことが証明されなくても(安全よりも弱者の経済復興を盾にした資本政策含め)、放射性物質によって発生したのではないことを証明出来ない限り、放射性物質を散布した可能性があると言うことで福島第一原発の責任を追及可能であるし、そうでないことが証明されない限り、「予測」不能なことは避けるとの「慎重の原則」をもとにした計画がゼッタイに必要であることが証明可能となるのである。このような認識論の進歩は「科学的推論」を無条件に受け入れることの誤りを承認し、技術官僚の認識の限界を認める新しい認識共同体が早晩支配的な地位を獲得することを予想させる。

7)技術官僚パラダイムの危機で出現するであろう新しいパラダイムの特色:
 そこで、このような今出現しかかっている認識共同体がどのようなものの考え方をするか、技術官僚パラダイムの次に来るものについて考える。新しい認識共同体は、西欧文明の結実とも言える啓蒙思想の中心となっている理性信仰と普遍主義/純粋理性と実践理性の分離/目に見えないものを排除する唯物主義/前近代としてのアニミズムと宗教、を受け入れない世俗主義を否定するであろう。ウォーラースティンが、かつて世界社会会議で指摘した通り、現在現れている文明転換の現象は、西欧普遍主義文明の行き詰まりと終焉と見ることが出来る。そしてかなり乱暴で飛躍的な思考をすれば、今までの技術官僚制が生みだした今日の人間の不安全状況 -侵略主義=植民地主義/排外思想=拝外思想- そう言う「近代主義」の悪を反省することが、新しい認識共同体に課せられた使命だと断言出来る。そこで、田辺元の「懺悔道としての哲学」の問題提起に立ち返る必要が生じるだろう。田辺元の主張する懺悔道としての哲学、「メタノエティーク」は、今日の近代知の大前提になっているカントの認識論と倫理/純粋理性と実践理性の分離を否定するところから始まる。つまり「倫理エティーク」を「認識論ノエティーク」に内包させた上で、メタ理論として超克する思想である。キリスト教のパウロの「メタノイヤ」と親鸞の「懺悔」を統合することで、近代を超えたポスト近代に入る。戦争と平和/植民地主義と反植民地主義について言えば、日本の植民地侵略を懺悔した永世中立国として、人間の安全保障に徹する新しい認識共同体を作ることで日本の歴史を踏まえた「メタノエティカ」を模索するべきであろう。もっと一般化して言えば、近代知についての懺悔は西欧近代の人間中心主義を否定せずに、日本のアニミズムの伝統を生かした「いのち」を中心に据えかつ生命の一体性と多様性をもとにする倫理(エティカ)を、一切の根底とする。グローバル主義ではなく、ローカルな認識共同体を先ず地元に作り、これを日本なら日本と言う国家の次元に広げる。それを世界各地の生命共同体とつなげる国際化ではなくローカルな地際/知際ネットワークに基づき、ローカル共同体における参加民主主義を根底に置いた連合主義的な世界秩序を、崩壊しかけているウェストファリア国家中心の金融資本主義に代わって構築することを、少なくとも目指す必要があろう。

8)西欧近代の次に来るもの:
 文化的にはアニミズムと基軸諸宗教を包含し、理性と感性との合致/審美主義と倫理との統合(日本では茶道が試みたアプローチ)を目指すポスト世俗主義が多様なローカルの伝統知をたばねていく- そう言った多様な世界の共存体制を相当な摩擦と混乱を覚悟しながら、自己組織的に形成して行く道を探ることになるであろう。このような西欧普遍主義のよい側面を温存しながら、多国籍企業が今日支配している世界規模の立憲体制におけるポスト世俗主義の混乱を活用して、更に上からのグローバル・スタンダードを排除した多様な世界の共生/共存する多様な認識共同体連合の対話から絶えず再調整される共通認識を参照し、多様性に基づく新しい普遍主義を備えた新世界立憲秩序を構築する必要がある。スティーブン・ギルやリチャード・フォークは、この世界規模の立憲秩序が現在多国籍巨大企業中心に構築されていることと、これに対抗する市民主義的な世界立憲秩序への動きの対峙状況を、研究対象に選んでいる。巨大多国籍企業中心の新自由主義グローバル・スタンダードを否定する市民主義的な新世界秩序の動きが、世界社会フォーラムによって形成されつつある。このような新しい認識の共有については、これを具体的に表現しているものとして、アンナ・アガタンゲルーの多元世界主義Worldismがある。生命の権利を基軸とする普遍人権の再評価、宗教/芸術情報による「目に見えるもの」と「目に見えないもの」の統一、ポイェトクラシーによる労働と芸術の合流など、が今後の思想界で次第にヘゲモニーを形成し万物を商品化する多国籍企業中心にとって代わることで、新しい世界規模の立憲主義の基軸になる可能性が開かれている。アガタンゲルーの根本的な問題提起は、人々と自然の多様な付き合いを不可能にしている「私有権」とその政治権力による保障に他ならない「領域国家」の二つの制度を見直すことにある。ここで我々は、西欧近代の思想としてプルードンの「貧困の哲学」の流れの中で、新しい認識共同体を考える必要に迫られている。

9)諸問題に対する現状分析の限界:
 これまでの論旨からして、危機状況に直面している技術官僚勢力に取って代わる認識論の形成が注目されるべきであることが解った。しかしこれらの説明では、かなり重要な問題が見えてこない。それはつまり、新しい認識共同体がこれを妨害しようとする緒勢力と複雑な現れ方をする権力闘争/思想闘争を進めていると言う問題である。今日の急速に解体と変容を遂げつつある世界の政治/経済と文化/心理の変容は、いくつかの傾向(トレンド)と反対傾向(カウンター・トレンド)の複雑な相互因果関係としてしか捉えられない。ここで具体的諸観を挙げて、論旨を終えることとする。

a) 持続不能状態に陥っている現状を変える非西欧の台頭と、これを押さえ込もうとするグローバル主義産官軍技術官僚の対峙状況
b) テロ国家と反テロ国家(テロ国家は米国と西欧、反テロ/テロ国家はIS等とも見做せ、偏向しないメディア報道が必要)
c) キリスト教の世俗化した西欧(権力をあざ笑う権利を象徴する『アイ・アム・チャーリー』)とイスラエルとの不純な同盟と、シーアとスンニーとの対立面を強調するIS等の復古主義イスラーム解釈をする教主国家との間の「文明間の衝突」
d) 一神教の普遍主義に対抗してマルクス主義の一解釈を敷衍した生産力中心主義と中国伝統思想を結合させる中国のカウンター・ヘゲモニーの台頭と、米欧へゲモニーを維持しようとする米国とその走狗と化した日本の同盟
e) 国家を引き従えてグローバル新自由主義立憲秩序を確立しつつある多国籍企業のグローバル・スタンダード、これに対抗して、生命地域中心の下からの一体でしかも多様な生態系に共生する真普遍多様文明勢力の台頭。