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反人種主義・差別撤廃世界会議後の人種主義との闘い
-とくにアジア・太平洋地域を中心にして-

 2001年8月から9月にかけてダーバンで開かれた反人種主義・差別撤廃世界会議(以下 では「ダーバン会議」と略称する)は、これに続いて起こった9・11事件とともに、西欧に 端を発した資本主義世界経済の奴隷制と植民地主義の変質としての人種主義のグローバル 化のひとつの転機となった。そのことは、とりもなおさず、アジア・太平洋地域における人 種主義との闘いにも大きな影響をおよぼすことになった。
 ダーバン会議の主題は人種主義でも、これまでの国連の人権の議論のような抽象的な議 論ではなく、特に歴史的な流れの中で起こった人種主義というものを問題にしたことが、この会議の特色となった。単に人種主義はいけないという事でなく、奴隷制と植民地制度 をその国益の推進に利用したのは誰かを問いただす会議であった。奴隷売買がいけないと いうことは世界人権宣言にも書いてあるけれども、いったい誰が誰をどういう風にして奴 隷にしたかという歴史的なことは、これまで国連の人権論争のなかでは、誰も聞かなかっ た。その結果、人権が問題に成るときには、かならず先進国が、開発途上諸国における人 権状況を批判する南北関係ができあがっていた。
 ところが、ダーバン会議においては、歴史がどうなっているか、が問題にされて、「人権、 人権」と開発途上諸国に対して偉そうなことを言ってきた米欧諸国に、厳しい反論が出さ れた。つまり、奴隷制と植民地支配を推進してきたその結果として、いろいろな人種主義 の問題、人権侵害の問題が出ているということがあきらかに指摘されたのである。しかも、このことを主張したのは、たとえばアフリカの国々の政府であって、NGOに代表された民衆だけではなかったことが注目されてよい。
 この主題は、しかし、アフリカの問題として、日本、そしてアジア・太平洋諸国が傍観し てよい問題ではなかったことも強調する必要がある。つまり、今日の日本の人種主義は、と奴隷制と密接に関係している。たとえば、日本による朝鮮の植民地支配は、今日の在日 コリアン差別を含むいろいろな型の差別をうみだしたということをわすれることができない。さらに、中国とアジア・太平洋諸国に対する侵略も、多くの差別のもとになっている。それから奴隷制は日本にはないように思われがちであるが、従軍慰安婦問題は、立派な性 奴隷制であり、国家が軍事性奴隷制を制度化したものであるから、ヨーロッパの奴隷制よ りもさらに質が悪い。ダーバンで、アフリカを中心とする人種主義的な搾取の対象でもあった今日の開発途上諸国先進工業諸国から、日本を含む先進工業諸国が突きつけられた問 題は、今日グローバル化した世界政治経済の中でますますつのる人種主義と差別を、その 歴史的な根から責め滅ぼすという、大変困難ではあるけれども、先進工業諸国がただちに とりくまなければならない課題であったということができる。この課題は、市民レヴェル と国家レヴェルとでは、前者の方が後者よりも、すなおにうけいれられたことが、ダーバ ン会議の特色であったといえる。つまり、NGOフォーラムでの討議をもとにまとめられた 宣言と行動計画とは、グローバル化が奴隷制と植民地主義の路線を走りつづけている国際 政治経済の行き着いた地点での人種主義と差別の諸問題をすべて取り上げ、その解決にあ たるべきことを市民としてみとめるとともに、各自の政府に対して真剣に取り組むことを 要求している。その語調のはげしさゆえに、一部先進工業諸国中心のNGOから、この宣言 と行動計画を支持しないむねの意志表示をうけ、マスコミにもたたかれてはいるが、差別されたものの立場をかなりよく表し、奴隷制と植民地主義の延長戦上でグローバル化時代 の人種主義と差別とを克服する方策について触れている。これに対して、政府間会議から でてきた宣言と行動計画とは、かなりの問題については、北側の国々が譲歩して注目すべ き人種主義と差別撤廃のための政策が決定されもりこまれてはいるが、以下で述べるとお り、最後まで、先進工業諸国が譲歩しないままに、最終文書から落ちている重要問題が注 目をひく。
 なかでも、今日世界の注目をひいているパレスチナ問題が、ダーバンの市民レヴェル・国家レヴェル双方で問題とされた歴史的課題のなかに入っていた。パレスチナ問題を人種主 義の枠の中で考えると、これは、最初は英国、第二次大戦後は米国の、中東における植民 地主義政策、帝国主義政策の歴史の中の問題としてとらえることができる。本来ユダヤ人 が祖国に帰るというシオニズム運動が現われた20世紀初頭には、なにもパレスチナ人を追 い出して帰るということではまったくなかったのが、48年のイスラエル建国の時には、パレスチナ人を追い出すという人種主義的な領域国家の主張が、イスラエルによって採用 された。そして、ダーバンのNGOフォーラムでは、南アフリカがアパルトヘイトを廃止し た今日、この国家グルミの人種主義が残っているのが、イスラエルの占領地区である、と いうことが指摘された。何故かというと、占領地区に住んでいる多くのパレスチナ人は、 境界線を越えて毎日イスラエルに行って、イスラエルの工場で仕事をしている。そして夜 になると帰る。これは、まさに南アフリカでやっていたように、住んでいる所は隔離して、 労働だけは、白人の住んでいる所に入れて、こき使う。後はまた黒人ばかりの所に返すの と同じことがパレスチナ人に対して行われている。そして、テロが起こると、この境界線を閉じて、パレスチナ人の職をうばうことになっている。
 ところで、このパレスチナの問題のほかに、ダーバン会議で政府間の合意が困難であっ た問題は、一つは、人種主義の被害者の定義の問題で、いまひとつは補償問題であった。その中心に位置していたのは、奴隷制と植民地支配の被害者に補償をしなければいけない ということで、特に、アフロデイセンダント、つまり奴隷にされて南北アメリカなどに移住 させられたアフリカ人たちの子孫にたいする補償が問題になった。それに付き合うかたち で、エイジアンデイセンダンツと言うことばがつくられたことは、とくにアジア太平洋地域 の人種主義問題との関連で注目すべきであろう。
 アフロデイセンダンツの場合は、主にアメリカになるが、エイジアンデイセンダンツの場 合は、イギリスに、南アジアの移住者などが西欧に、中国や日本などの移住者が北米やラ 米に多く生活しており、さまざまな差別を受けてきた。このエジアンヂセンダントの場合、 アフロデイセンダンツの場合のように完全な奴隷労働ではないけれども、やはり低賃金労働 者として、欧米先進地域などに移民させられた。その意味で、やはり補償の問題が存在す る。この補償問題は、パレスチナ問題とともに、ダーバン会議が一日延びる原因となった。 そして、ヨーロッパの国々が、正式に謝罪するということをはっきり言ったことで、一応 の決着をみた。これは歴史的にすばらしいことである。ただし、この譲歩を勝ち取るため に、アフリカ諸国のほうで譲歩し、謝罪をしたからといって、金銭的な賠償を約束するも のではないということが条件で、この歴史的な奴隷制と植民地主義を推進してきた国々の 責任が確認された。ただし、この謝罪にはアメリカはくわわっていない。同国は、たくさ ん奴隷を運んでいるにもかかわらず、欧州諸国が謝罪する前に席を蹴立てて退場していた からである。ただし、アメリカから来たNGO代表たちは、米国政府は帰ったけれども、自分たち米国のNGOは、国に帰ったら、賠償を政府に要求する運動をつづけていくことを 約束した。
 いずれにせよ、ダーバン会議の政府間の協議においては、パレスチナ問題が最後まで残 った。アメリカが退場したあとも、一週間ほどヨーロッパ諸国は残って、アフリカ諸国と の話を続けた。しかし、この諸国は、最後まで、イスラエルの人種主義的なパレスチナ民 族への政策を非難することを拒否し続けた。こうして、ダーバン会議は政治化した会議と いう批判を受けている。この「政治化」という言葉は、1970年代に、国連で、南の国々 が、シオニズムは人種主義であるという決議など、ことあるごとに先進工業諸国に挑戦す る決議を、その数にものをいわせて通していた頃に使われた言葉である。法的または政策 的に議論すべきことを、南の政治的な利害という観点から「政治化」してとりあつかうこ とへの批判の言葉だった。ところが、ダーバン会議では、この「政治化」ということがだ れによって行われたかという点で、一般にいわれているように、開発途上諸国の側が会議 を「政治化」したのではなく、むしろ先進工業諸国が、さまざまな形で人種主義問題につ いての責任問題の法的・人権的な議論にはいることを拒否して、その政治的な解決をここ ろみたことであるといえよう。米国は、もっとも赤裸々な形で、退場によってその立場を 「政治的」に表明した。世界最大のタイコク、米国が退場すれば、ダーバン会議の価値が さがることをけいさんしての政治的な戦略をえらんだのである。一方、西欧諸国そのた日 本を含む先進工業諸国政府は、ダーバン会議の準備諸会議で、いくつかの問題について譲 歩しないことをあきらかにして、これらの諸問題を、ガラスばりの公式会議からはずして、 アフリカ諸国あるいは、アフリカ・アジア・ラテン=アメリカ諸国と非公式に協議する方 式に持ち込んだのである。これは、公式会議での法的・政策的な議論を避けて、開発途上 諸国代表との政治折衝に持ち込んだわけで、まさにダーバン会議の政治化に成功したとし かいえない。したがって、米国の場合にも、西欧はじめその他の先進工業諸国のばあいに も、ダーバン会議を政治化する責任を持つのは先進工業諸国であって、開発途上諸国では ない。
 ところで、なぜダーバン会議が、このように先進工業諸国によって政治化されたかということは、その直後に起こった9.11事件と反テロ戦争のおかげであきらかになったと いうことができる。なぜなら、奴隷制と植民地支配にはじまる今日のグローバル化時代の 人種主義と差別をめぐって、今日の反テロ戦争が展開されているからである。ダーバン会 議の政治化は、その意味で、反テロ戦争とは表裏一体で、写真でいえば、ダーバン会議が ハンテロ戦争というポジの画面のネガになっているということができる。
 要するに、反テロ戦争は、奴隷制と植民地支配に端をはっしているグローバル政治経済 の新しい段階で、今までの、南に温情的だった1960年代のケオーケーンズ主義を南に 厳しいネオリベラル国際市場経済の自由放任主義をさらに補強する強力な「夜警」覇権国 家によって裏打ちする第2段ネオリベラリズムの時代にはいったのである。この段階には、 グローバル経済は自由放任主義だけれども、グローバル政治・軍事面では、アメリカの覇権 によるグローバル経済秩序の安全を保障する。その他の先進工業諸国、つまりヨーロッパ、 あるいは日本の政府が協力して、「反テロ国家連合体制」という名の総力戦体制を作るとい う仕組みが出来ている。要するにグローバル経済では自由競争をやりながらも、「文明国」 全部でまとまって反テロ戦争が出来るような、強いグローバル政治権力がつくられたわけ である。自由放任主義で政府が金を出してはいけない時に、一つだけ例外が許される。テ ロリズムに対する治安維持と戦争努力の為の支出、とくに、科学技術開発は許されるよう になった。そういうことで、情報技術バブルがはじけたアメリカ経済を支えるのに、同時多発テロが起こって強力な総力戦国家が軍事経済支出ができるようになったわけである。また、票の数え方が問題になった大統領選挙のあとで、ブッシュ政権の政治的基盤を強化するのにも、このハンテロ戦争の勃発が大いに貢献している。しかも、ブッシュ大統領 の反テロ戦争のための覇権同盟形成の一大特徴は、これが、「悪の枢軸」に対して「文明」 のなにおいて推進されていることである。そうすることで、いつも人権を守らないなどと いうことで、「文明国」でないと言われそうな非西欧の国々は、文明の為の連合であればこ れに参加する、といわざるをえないと考えた。
 このように、9.11事件以後の」世界に出来上がった、第2期のセオリベラル・グローバル秩序は、実はダーバン会議で問題になった人種主義と差別の歴史の到達点でしかない、ということができよう。その証拠として、反テロ戦争の中で、1)パレスチナ人へのアパ ルトヘイトは大量虐殺に拡大し、2)イスラーム排斥主義にもとづく犯人探しが恒常化し、 3)先住民族はじめマイノリティ民族への抑圧が強化され、4)人種主義的な政府がその 人権侵害政策を国際的に公認され、5)アフロディセンダント・エージアンディセンダンツはじめ、先進工業諸国への移住者、とくに移住者女性の人権侵害が深刻化している。